現在発売中・SAPIO6月号掲載
『大東亜論』の感想、
門弟MLからご紹介します!
岡りなの質問への頭山・枝盛の答えやいかに!!。
SAPIO「大東亜論・自由民権篇—第10章–」
を読みました。
茶魔美ちゃん似の岡りなの
知的好奇心&大胆不敵は
容赦なく押し込んでいきます;;。
SAPIO「大東亜論・自由民権篇—第10章–」
を読みました。
茶魔美ちゃん似の岡りなの
知的好奇心&大胆不敵は
容赦なく押し込んでいきます;;。
出ましたっ! 本気で考える恐るべき者に
出会った時の頭山の反応ギャグ、
「恐るべきやの無尽蔵!」
(人差し指を相手に向けてぴくぴく;)。
「恐れ入谷の鬼子母神」の派生でしょうか。
試しに両手でやってみたら
ぴくぴくやられた方は何やら
ゾワ?ッとするらしいです。いいカモ!。
出会った時の頭山の反応ギャグ、
「恐るべきやの無尽蔵!」
(人差し指を相手に向けてぴくぴく;)。
「恐れ入谷の鬼子母神」の派生でしょうか。
試しに両手でやってみたら
ぴくぴくやられた方は何やら
ゾワ?ッとするらしいです。いいカモ!。
「天は人を平等に造った」(福沢諭吉)
「『自由・平等』は天から与えられたものだ
と信じる。」(植木枝盛)
—これは当時に生きる人々にとって
全く新しい爆弾のような言葉・考え方
だったと思います。
新しいというより、無意識でも各自の中にある
「大切にされたい、満足したい・・・」という
願い(欲)の蓋を開けてしまう
魔法の言葉だと思いました。
「『自由・平等』は天から与えられたものだ
と信じる。」(植木枝盛)
—これは当時に生きる人々にとって
全く新しい爆弾のような言葉・考え方
だったと思います。
新しいというより、無意識でも各自の中にある
「大切にされたい、満足したい・・・」という
願い(欲)の蓋を開けてしまう
魔法の言葉だと思いました。
蓋を開けたが最後、この考え方は
“我”の赴く方向へ様々な形で
広がっていくと思われます。
“我”の赴く方向へ様々な形で
広がっていくと思われます。
>福沢は「自由・平等」を本気で信じてはいない。
職業や身分の貴賤があると思っているし、
徒党を組むな、「分限」を守れと言う。
(枝盛が福沢の論を評して・P63)
職業や身分の貴賤があると思っているし、
徒党を組むな、「分限」を守れと言う。
(枝盛が福沢の論を評して・P63)
これより急進・枝盛は、天賦である自由平等は
すべてに及び、「天皇と俺は本当は対等じゃ」
とまで言います。
すべてに及び、「天皇と俺は本当は対等じゃ」
とまで言います。
頭山の考えは「一君万民—天皇という
無私の存在の下で全ての国民は平等」。
これは上記の「蓋を開けたが最後、
人間は“我”の赴くいろいろな方向・形で
広がっていってしまう」という危うさを
察知しているからこその言葉ではないでしょうか。
無私の存在の下で全ての国民は平等」。
これは上記の「蓋を開けたが最後、
人間は“我”の赴くいろいろな方向・形で
広がっていってしまう」という危うさを
察知しているからこその言葉ではないでしょうか。
言い替えれば民心の弱点、バランスを
とることの難しさを熟知し、
安易に信用しないのだと思います。
【無私】であり、祭祀を司る最高位、という存在は、
神代からの日本・そしてその自然への畏れを持ち、
尊重するという最たる「慎み」の現れだと思います。
これは「我」が暴れ出すのを鎮める
文字通り落ち着いた有難く貴い存在。
—「一君万民」は、優れた世の捉え方
(語弊恐れず言えば「演出」)と思います。
神代からの日本・そしてその自然への畏れを持ち、
尊重するという最たる「慎み」の現れだと思います。
これは「我」が暴れ出すのを鎮める
文字通り落ち着いた有難く貴い存在。
—「一君万民」は、優れた世の捉え方
(語弊恐れず言えば「演出」)と思います。
人の器はてんで平等ではない、
小さな杯から果てしない大海まで、
水の入る量は無限大ほども
違うと思っています。
育った環境も今置かれている状況も
能力も一様ではないです。
小さな杯から果てしない大海まで、
水の入る量は無限大ほども
違うと思っています。
育った環境も今置かれている状況も
能力も一様ではないです。
例えばネット内だけでも、
読解力や状況の理解力・・・
天と地ほどの開きがあるのは一目瞭然。
ネトウヨだのネトサヨだの
浅薄ジェンダーフリーだのの
オレオレ言はもうウンザリ。
読解力や状況の理解力・・・
天と地ほどの開きがあるのは一目瞭然。
ネトウヨだのネトサヨだの
浅薄ジェンダーフリーだのの
オレオレ言はもうウンザリ。
今日の木蘭師範のブログ
「へんてこジェンダー・ギャップ指数」のように、
政治家や有名人、言論を生業にしている
御人等も、上記の例外ではありません。
「へんてこジェンダー・ギャップ指数」のように、
政治家や有名人、言論を生業にしている
御人等も、上記の例外ではありません。
そして第10章の最後のコマ。
—植木枝盛著「民権自由論」を
「まあまあの出来ね。」とヒヒョー目線で見ている
岡りなの顔がとても怖いです。
というか、「—それが女の自主独立ばい!」と、
このページの彼女の顔は自信に満ちて
いることで、ある種の醜さが漂い、
危惧を感じさせます。そのコマの言葉
—植木枝盛著「民権自由論」を
「まあまあの出来ね。」とヒヒョー目線で見ている
岡りなの顔がとても怖いです。
というか、「—それが女の自主独立ばい!」と、
このページの彼女の顔は自信に満ちて
いることで、ある種の醜さが漂い、
危惧を感じさせます。そのコマの言葉
>だが「分限」をわきまえぬ自由民権の危うさは、
すでにこの女の中に顕れていたのかもしれない。
すでにこの女の中に顕れていたのかもしれない。
にギクリとさせられます。
では「分限」とは何か、という問いが始まります。
またまた続きが楽しみー!。
では「分限」とは何か、という問いが始まります。
またまた続きが楽しみー!。
そう言えば「自分」という言葉は、
英語の「I」でもなく「我」でもなく、
「自らの分(限)を心得た一人称」と思われますが、
ごく普通使っている日本語の中に
「分」が入っていることに驚きます。
英語の「I」でもなく「我」でもなく、
「自らの分(限)を心得た一人称」と思われますが、
ごく普通使っている日本語の中に
「分」が入っていることに驚きます。
明治期に先人が行ってきた思想に対して、
現在の日本人がいかに後退しているかを
つくづく思い知らされる場面が満載。
まさに考えるべきこと無尽蔵!
『大東亜論 自由民権篇』の
さらなる展開にご期待ください!